とこまる 編集部

ゆる~く継続

「無職」ということ

私は無職だ。

そうなのだ。無職なのだ。

去年の8月。まだ蝉が鳴いてむさくるしい季節に、なにもかもどうでもよくなって、外に出るのも億劫で。だけど何もすることがなくてウダウダして。

時々、涙が出てきて止まらなくて、わけもわからず焦って、でも何をしようにもやる気なんて出てこなくて…。

そうこうしているうちに休職期間が1か月たって…。

今後もあの仕事を続けるのはキツイ…。というかもう嫌だ。やりたくねぇ…。

 

 

8/31 会社を退職した。

退職するための書類に判を押してその後、喫茶店に立ち寄った。

甘い物が欲しくて、その店のパフェが気になって入ったのだ。

注文をしてしばらくした後、思ったよりも大きかったそのパフェを前にして

久しぶりに胸が躍った。

そして一口…。チョコレートの濃厚な味が口いっぱいに広がって、

これまでのウダウダした気持ちが一気に晴れたような、

パァーン!とはじけ飛ぶようなそんな感じがした。

 

。。。

 

とまぁ、そんな感じで去年の8月退職をして、1年が経つのである。

その間にバイトも始めたものの、4か月でクビになってしまい、再びの無職到来。

バイト期間の4か月を無視すれば今に至るまで1年ほどの無職期間。

今回は、無職になって感じたことを今の段階で思い出せることや今感じていることを書いてみようと思う。

 

…と言っても、書けることってない。

パッと出てきたのは、

「案外、無職生活にも慣れる」ということ。

会社を辞めてすぐは、「これからどうしよう、何かしないと…」とまぁ、普通に焦りがあってバイトをやってみたのだが…。

バイトがまさかの4か月でクビになり、なってからというもの、そこで少し何かが折れたのだろう。

「なんかもういいや」と思ったのだ。

 

実は、そのバイトは記事の編集のアルバイトで私なりに力を入れていたものだった。

昔から本が好きということや、アルバイトで作成する記事の内容が私にとって興味のあるものであったからこそ、頑張っていたのだ。

なのに、なのに…。

クビだ。

 

そこで何かの糸が切れたように、すべてのことがどうでもよくなった。

 

もちろん、バイトをクビになってからも焦るには焦った。何かしなければ…と。

だけど、よくよく考えてみれば会社を辞めてその時点でもう、半年ほど経っていたのである。

今更焦っても、自分の経歴に空白期間ができたことは消せないのだ。

つまり、もはや1か月後に就職しようが、3か月後に就職しようが、変わりがない。

ということで段々と先延ばし能力(よくいえば能力だ。待つということも肝心であるから)を身に着けて、今に至るのである。

 

現在感じていることとして、最初にあった焦燥感が良いのか悪いのかわからんが、薄くなってきた。もちろん、あるにはあるのだが、今更焦ってもしょうがないと、半ば諦念できるようになった。

 

そして家でパンを焼いたり、ブログを書き始めてみたり、Youtubeをやったり、クラウドソーシングサービスで小遣い稼ぎをしたり…etc

無職生活を充実させるべく色々なことをやり始めた。

そうこうしているうちに、無職生活に慣れてしまったのだ。

 

むしろ少し快適に思っているときもあるくらい。

といっても、やっぱりお金や将来の心配はなくなるわけじゃないけど…。

まぁ、今現在はそんな感じ、ということ。

上手くかけなかったけれど、以上!!(笑)

もう終わらせる。

 

今回、なんでこのタイトルで書こうと、思ったかというと、

この本を読んだから。

色々な人が無職について好きなように語っている本。

この本を読んで、自分も自分なりに無職のときに何を感じたのかについて書いてみようと思ったのだが…。

上手く書けんかった。

終わります。

 

。。。

 

一回終わったけど、もう一回思うところがあったので書いてみる。

 

きっと無職が辛いのはその期間に目に見える成果がないからなのでは?

仕事をやっていればそれなりに、自分がやったことが可視化されたり、成果をみれたりする。けど、そうか、。つまり、無職期間は自分がやったことを日記やこうしたブログに綴るとイイのでは?

そうすることによって自分が何かをした、という気になれる、

何もしていないわけじゃない。

だけど、やっぱり、世間からすれば何もしていない期間と、みられてしまう。

それが辛いんだ。

資本主義社会ではお金を稼ぐことやそれにつながる時間に有用性があると考えるから、無職の期間は無用、無駄、ということ。

さらに、その資本主義社会で生きているのは自分たち自身だ。

だからこそ、無職になった自分やその期間に自分自身が価値を感じられなくて、怖い。

そうか、つまり自分だけでも「自分にとって」無駄じゃないと思えたなら少しは気持ちが軽くなるのでは?

本当は社会も無職に対して寛容であればいいのだけれど。

 

だけど、そう考えると無駄なことはないのかもしれない。

だって、人間は色々な経験をもとにこれからの選択をしていく生き物だから。

無職期間だって何かを感じていて、その期間を経て次がある。次の人生がある。

つまり、ずっと無職状態(可能性はあるけど)というわけではないから、大丈夫だ。

そこに価値を見出すのはいつだって自分自身ということ。

社会にとっては無価値でも、自分にとっては価値がある、そんな時間が無職期間なのかもしれない。

社会を中心に考えるのではなく、自分を中心に考える。自己満足の世界。

それが無職ということか…。

 

ただ、たまにやっぱり無職中にしていることが、こんなことしていて何になるんだろう…とか思ってしまうことってある。

興味の赴くままに本を読んだりしていても、それが実際に社会に役立つってことが少ないし…、だからこそ、自分でもその期間が「無価値」と感じてしまうことが怖い。

意味があるという保証が欲しい。

『無職本』には「無駄な時間なんてない」とか書いてあったけど、その時間の価値はその時に感じられないのが残念だよな。

だって今していることが、どう将来に役立つのかなんて分からないんだから!!!

無駄な時間なんてない、って本当かよ!?

とか思っちゃうねぇ…。

はぁ…。

とりあえず、好きに本を読みまくろうっと。

 

無職という、自分自身が価値を感じられるようにしていくための自己満足の世界。

 

それが今の私なりの結論かも..?

かっこよく決めてみただけだ。

よし、今度こそ終わろう!!終わり。